熊本家庭裁判所 昭和53年(家)819号 審判 1979年7月11日
申立人 高田マサヨ
相手方 高田礼子
主文
本件申立を却下する。
理由
1 本件は、当初、申立人により昭和五二年一一月一八日、申立の趣旨は、「相手方は被相続人亡高田勇治の相続財産三分の一を申立人に分割する旨の調停を求める。」とし、申立の理由は、「1 被相続人亡高田勇治は昭和五〇年六月二六日熊本市○○×丁目××番×号の住所において死亡したが、その妻である相手方、及びその妹である申立人の両名が、同被相続人の遺産を相続した。2 同被相続人は、上記相続開始当時、別紙第一目録記載の土地・建物、及びその他の幾多の有体動産を所有していたが、その相続財産は、民法の規定により、相手方がその三分の二を、申立人がその三分の一を、それぞれ相続した。3 ところが、相手方は、上記相続財産を独占しようとしているので、本調停申立に及んだ。」として調停の申立がなされ、当庁昭和五二年(家イ)第七四九号遺産分割調停申立事件として立件されたが、同調停事件が、昭和五三年七月二一日、不成立で終了したため、審判の申立があつたものとみなされたものである。
2 ところで、申立人が、本件遺産として主張するところのものは、上記のとおり、「別紙第一目録記載の土地・建物」、及び「その他の幾多の有体動産」である。
(1) ところが「別紙第一目録記載の土地・建物」(以下、○○の土地・建物という。)については、相手方は、被相続人と相手方との間に、被相続人の生前、被相続人が死亡したときには、○○の土地・建物を相手方に贈与する旨の合意があつたので、○○の土地・建物の所有権は、被相続人の死亡と同時に、相手方に帰属したので、本件遺産分割の対象となる財産ではない旨を主張する。
そこで、以下、この主張について判断する。
(ア) 相手方、山口忠一、及び山口信治に対する当裁判所の各審問の結果、当庁家庭裁判所調査官作成の昭和五四年三月二三日付本件調査報告書、昭和五三年六月二日第五回調停期日の調停事件経過表、本件記録添付の各登記簿謄本等を総合すると、○○の土地・建物は、登記簿上いずれも被相続人の所有名義となつているところ、被相続人はその晩年、○○の土地・建物の所有名義を「相手方へ換えて下さい。」との相手方の要求に対して、日頃から「財産は全部相手方のものだ。自分が死んだら全部相手方にやる。」と繰り返し、繰り返し、言明していたことは認められる。
(イ) ところが、上記言明は、相手方が自陳するとおり、正式の(死因)贈与契約書を作成したり、親族が集合した前であらたまつてなされたりしたわけではなく、日常会話の中で口頭でなされていたかのようである。
(ウ) そこで、被相続人と相手方との間で、上記言明がなされるに至つた背景的諸事情を検討してみるに、上記各資料のほか本件記録添付の各戸籍並びに住民票関係書類、売買契約公正証書正本写、建物所有権保存登記申請書写、承諾書(写)、固定資産課税台帳登載証明書等を総合すると、
(a) 旧制中学校を卒業し代用教員を三年間ほどしてから家業である製本業に従事していた被相続人と、一度他家へ嫁入つたが子供ができず三年間ほどで離婚されていた相手方とは、大正一三年一〇月三〇日、挙式して結婚したが、再度離婚されたのでは戸籍が汚れるということで、婚姻届出はせず、昭和三年八月七日になつて、正式に婚姻届出をしたこと
(b) 結婚当時、製本業は、別紙第二目録記載の土地・建物(以下、○○○の土地・建物という。)で五・六名の従業員を使用して、帳簿類、雑誌類、複写物類のいわゆる雑物(ざつもん)を手がけていて、銀行とか会社とかから注文もきて、一応の仕事はあつたものであるところ、被相続人は、やさしくおとなしい性格、かつ常識人で、よい技術を持ち、念入りの仕事をしていたが、どちらかといえば、仕事よりも遊びの方に傾きがちで、活動写真の機械に夢中になつて活動写真館に入りびたりとなり、毎晩遅く帰宅するありさまであつたので、もともと男まさりの性格で、体も強く、二度目の結婚なので今度は失敗できないという気持のあつた相手方は、実質上営業を切り回わし、毎夜一二時ころまで働いたが、これに対し、被相続人は、内心は気の毒がつていたかのようでもあつたものの、「自分に対するつら当てに夜遅くまで働いている。」などと勝手なことを言つて怒り、態度を改めようとしないので、営業も順調にいかず、五・六名の従業員の給料を支払つてしまうと、夫婦二人の生活費さえ残らず、食うや食わずの生活をしていたこと
(c) それで仕方なく、相手方が、自分の実家から金銭のほか、米、みそ、しよう油などを貰つてやつと食いつないでいたこと
(d) こういう生活が数年間続いた後、五・六名の従業員にやめて貰い、夫婦二人だけで事業を営むようになつてから、どうにか生活できるようになつたものの、注文取りなどの外交を担当していた被相続人は相変らず働こうとせず、相手方が炊事、洗濯などの家事のほかに製本作業、会計帳簿つけの仕事を担当しつつ、尻を叩くように口喧ましく言つて被相続人に仕事をさせていたので、信用も厚くなり、営業もある程度は順調にいくようになつたものであるところ、その作業量は、被相続人のそれはどう多く見積つても全体の三分の一を超えることはなく、相手方のそれは三分の二を下ることはなかつたし、以上のような状態が、昭和四一年、○○○の土地・建物を処分するまで続いたこと
(e) 被相続人は、結婚後三年間ほどして、盲腸炎で手術をしたが、その際の費用も、相手方の実家の母山口ヒサエや兄山口忠一が支出してくれたこと
(f) 被相続人は、相手方と結婚する以前に被相続人の先代が子供らの進学や死亡その他のための必要からした借金を承継し、結婚当時これが銀行に対する元金一、〇〇〇円の負債として現存し、この負債のため○○○の土地・建物に抵当権の設定がなされていたが、当時の一、〇〇〇円といえば、二階建の家が新築できるほどの大金であり利息も多額であつたうえ、上記のとおり、製本業も思わしくなく、利息の支払さえできなかつたので、抵当流れのおそれがあつたこと
(g) 相手方は、上記負債の現存を知つたとき、被相続人と結婚するのではなかつたと後悔したが、再婚ではあつたし、再度離婚すればもの笑いとなるものと思いなんとか頑張ろうと決意し、上記抵当流れをふせぐため、紋付三枚、丸帯二本、純金の指輪などの嫁入り道具を売り払つては、何度も、遅延利息の支払いをしたこと
(h) しかし、これでは、同じことの繰り返しとなるため、相手方は、その実家に泣きついて、兄忠一から、一、〇〇〇円を貰い受け、昭和三年五月二八日、上記元金一、〇〇〇円の弁済を了し、○○○の土地・建物を上記抵当流れから保全したこと
(i) ところが、被相続人の行状は改まらないため、経済的に困窮し、相手方は、再度その実家に被相続人の借金返済のための経済的援助を求め、五〇〇円の金策を依頼したときには、当時相手方の実家の当主であつた兄忠一も、さすがに厳しく、「遣るわけにはいかん。貸すことにする。」と言つたので、○○○の土地・建物に抵当権を設定し、製本業の機械類を公正証書で売渡抵当に入れ、昭和一〇年七月一〇日ころ、被相続人名義で五〇〇円を借用したこと
(j) しかして、被相続人も相手方も、兄忠一に対し、上記一、〇〇〇円及び同五〇〇円を、ともに未だ返済しないままになつていること
(k) 昭和四一年から昭和四二年にかけて、○○○の土地・建物を処分して、その売却代金で○○の土地を買い求め、同じく○○の建物を新築したが、相手方は、これらの売買及び請負の各契約締結、その他一切の手続をなし、被相続人は何もしなかつたが、「主人である。」ということのみの理由で契約者と登記簿上の所有者は、いずれも被相続人名義としたこと
(l) しかし、○○の建物を新築してしばらく経つたのち、相手方は、抵当流れするはずであつた○○○の土地・建物を実家から貰つた金員で保全できたこと、長年製本業の仕事を頑張つて切り回わして貢献してきたこと、年老いた今後の生活のこと等も考えて、○○の土地・建物は、実際上は相手方のもの同然であるから、その所有名義を「相手方へ換えて下さい。」と要求したところ、被相続人は「そのとおり財産は全部相手方のものだ。しかし戦後女が強くなつたというが、相手方は戦前から強い女だ。名義だけでも残しておかないと主人でも追い出しかねない。また隣近所の手前もあるし、名義換えだけはこらえてくれ。」などと半分冗談、半分哀願するようにいつていたこと
(m) 被相続人と相手方との間には、子供がなかつたことから、老後の生活のことについて夫婦二人で話合つたが、被相続人は「二人とも動けなくなるまでは○○の土地・建物で生活し、二人とも動けなくなつたときは、同土地・建物を売り払つて、相手方の実家の方へ世話になろう。」とか「女の方が長生きだからどうせ被相続人の方が先に逝くだろう。そのときは、○○の土地・建物は相手方において売り払うなりして、相手方の実家の方へ世話になるとよい。」とか、いつていたこと
(n) なお、相手方は、現在、職業はなく、○○の土地・建物に一人で居住し、老齢年金(一か月約一万円宛)と実家の兄忠一の援助(二か月に一回約二万円宛)と兄忠一の弐男がくれる小遣銭や食料品に頼つて生活していること
(o) 被相続人は、被相続人と相手方との結婚以前から、申立人との仲がよくなく、上記結婚一七日に被相続人や申立人の母キヨが死亡したとき、被相続人が申立人を迎えに行つたが、申立人は帰らずに結局葬儀にも出席せず、その後も申立人が被相続人方の近辺まで来たことはあるが、相手方は、大正一三年の上記結婚以来、申立人に会つたこともなければ、手紙のやりとりをしたこともなく、交際は一切なく、本件調停の席で上記結婚後五〇余年目にして初めて対面したし、被相続人は、相手方の実家の者に対して、「申立人には絶対財産はやらん。申立人には何ひとつ相続させん。」とかたくなにいい張つていたこと
以上のような各事実が認められ、本件記録中には上記認定を動かすに足りるような資料はない。
(エ) そして、上記認定のような背景的諸事情を勘案してみると、被相続人と相手方との間での上記言明は、これをもつて○○の土地・建物の死因贈与についての確定的合意の成立が両者間にあつたものと評価するのに十分であるといわざるを得ない。
(オ) そうすると、○○の土地・建物の所有権は、被相続人の死亡と同時に、上記合意に基づき、相手方に帰属したものといわなければならないので、同土地・建物は、本件遺産分割の対象となる財産ではないこととなる。
(2) 次に、「その他の幾多の有体動産」については、当庁家庭裁判所調査官作成の昭和五四年六月一一日付本件調査報告書によると、相手方宅において「めぼしい物品」として現認したのは、家系図一幅、槍穂先二本、脇差一振り、箪笥二棹、鏡台一台であるが、家系図は、幅一六~一七センチメートルの厚手の和紙に墨と朱で記された巻物であつて、明治の初期に同一人の手によつて書かれたものと推測される程度のものであり、槍穂先と脇差は、いずれも錆付いたもので、脇差は抜くことさえできず、銘の有無も確認できず、由来も定かでないものであつて、これら家系図、槍穂先、脇差を被相続人の遺産として交付した場合、交付された者は「馬鹿にされた思い」がしそうな品物であり、箪笥と鏡台は、いずれも昭和二八年の大水害で無一物となつたため昭和三〇年初期に相手方が使用するために購入したものであることが、それぞれ認められ、上記認定事実を勘案すると、家系図、槍穂先、脇差については遺産分割の対象に加えるほどの価値はない物というべきであり、箪笥と鏡台は相手方固有の物というべきであろう。そうすると、本件遺産分割の対象となる有体動産は存在しないこととなる。
3 以上のとおりであつて、本件については分割すべき遺産が存在しないので、本件申立はこれを却下することとして、主文のとおり審判する。
(家事審判官 江口寛志)
遺産目録<省略>